坂 道 第二話
講演会当日、信子は自宅近くからバスに乗って、会が催される市民ホールへと出かけた。午前中は出かける用事がないという誠に、昼過ぎまで戻らないかも、と告げると、
「ああ、ゆっくりしてきなさい。お母さんたちとお茶でもして来たら?」
と、やけに鷹揚な態度で見送ってくれた。それでいて2時ごろに戻ってくると、昼食がまだなんだけど、などとずっこけそうなことをいう男なので、決して油断はできないのだが。
会場入り口には、ベニヤ板に白い模造紙が貼り付けられた看板が立てられていた。パソコンで作成したらしい大きな文字で、
『「僕らの先生は手で歩く」 の著者、坂田昇先生 講演会』
とある。
(障害者の先生なのか)
信子の胸をちくりとさすものがあった。彼女は大学時代、車椅子の障害者の世話をするボランティア活動に専念していた。だが、その活動は手痛い結末を迎え、以来信子は車椅子の障害者とは積極的に関わらないように努めてきたのである。
ロビーに入ると、花瓶に盛られたカサブランカやカーネーションの大きな花束が目に入った。扉の傍に同じクラスの委員仲間が立っていたので、そちらに近づこうとすると、真面目な1人が、
「受付は?」
と、信子に促す。彼女は「あ、そうだね」と頷くと受付という紙がぶら下がったテーブルに向かい、参加者名簿に記名して講演会のパンフレットをもらった。そしてふと顔を上げると、今日の講演者らしい車椅子の男性が、スタッフの男女と歓談している姿が視界に飛び込んだ。
その横顔を何気なく確かめて、信子は思わず目を見張った。
全身から血の気が引いて、足がガタガタと震え始めた。、
笑うとなくなる眼鏡の中の下がり目。
膝から下を失った短い両足に合わせて縫い上げたスラックス。
間違いなく彼だ。
田中範夫。
「坂田昇」は、ペンネームか何かなのだろう。
事故で両足を失い、恋人だった信子の仕打ちに絶望して、ある日突然彼女の前から姿を消した彼。
信子はこのまま帰ってしまおうかと思った。だが背後では、同じように数合わせのために電話で呼び出された委員の仲間が待っている。
(どうか見つかりませんように)
彼女は、街の物陰に潜伏している脱獄者のような気持ちで、深くうつむきながら受付を離れ、仲間の輪の中に逃れるように戻った。そして彼女たちを盾にして歩調をあわせながら、ホールに続くドアに向かったのである。
クッションの効いた薄暗いホールの座席に深々と腰を下ろすと、信子は気持ちを鎮めるために、何食わぬ顔をしてパンフレットを開いた。だが、その目は何も見ていなかったし、頭は何一つ理解しようとていない。隣で交わされている仲間たちの声すら耳に入らない。相変わらず信子の心臓は、誰かに聞こえるのではないかと思うほど激しく打ち続けている。
やがて照明が落とされ、演壇に後援者である坂田昇が、司会者に続いて車椅子を転がしながら登場した。
満場の拍手の中、舞台の中央でスポットライトを浴びた、かつての恋人の小さな姿をぼんやりと見下ろしながら、信子の思いは二十五年前の日々を彷徨い始めた。
(つづく)
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今後の内容
信子と範夫はボランティア活動を通じて惹かれ合う。
その後、彼が事故で足を失い、障害を乗り越えて恋人になった信子だったが、
彼女の気持ちは決して純粋なものではなかった。